住吉川は全長4.073q、流域面積11.490kuの二級河川で、表六甲河川群に属しています。
六甲山中を水源とするこの川は、複数の渓流を集めながら東灘区の中央を南下し、扇状地を形成しながら大阪湾に注いでいます。
都市部を流れる川ですが、生活排水や工業排水の流入も少なく 多くの自然が残っており、上流から下流まで様々な場所で生き物と触れ合うことができます。
写真解説 住吉川(2004年4月撮影)
電車の小気味よい通過音の中、流路の草むら〈ブッシュ〉が揺れています。
平日には ペットの散歩やジョギング、ウォーキングを楽しむ人々、休日には家族連れの姿も多くみられます。
住吉川の中流域から下流域(東灘区のあたり)河川敷は「清流の道」と呼ばれています。
今は人々の憩いの場となっている清流の道ですが、はじめから人々のための遊歩道として整備されたわけではありません。実はこの清流の道は、昭和の中頃行われた六甲アイランドを埋め立てる工事のときに土砂を運ぶダンプカーが走るために整備された工事用の通路でした。
工事が終わった後は当然立ち入り禁止となっていたのですが、多くの声を受けて「人々のための道」として再整備されることとなり、昭和49年(1974年、約40年前)に開放されたのです。
その後「阪神大震災」を教訓として『災害にも強く、親しみやすい川づくり』を目標としながら、「階段状護岸」や「スロープ・階段」などの親水護岸が整備されていき、元来の水系の美しさもあって都会の中を流れる清流として人々に親しまれています。
写真解説 国道2号線沿いから望む 住吉川( 2004年5月撮影)
住吉川の両岸に続く清流の道。
川に下りられるように加工された階段状護岸(手前の右側です。画像では分かりにくいですが、反対の左側にもあります)の向こうには、車両も乗り入れられるスロープ(画像奥の右側です)が取り付けられています。
水面の草むらの影に見えるのは、両岸を往き来するための飛び石でたくさん設置されています。
昭和13年(1938年)の阪神大水害や平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災の経験を生かし、災害に強い川を目指して整備が行われました。
川幅などは100年に一回の大雨(流量:260m2/秒)にも耐えうるように設計され、親水プールは水流を弱める働きを持っています。
また、地震・大規模火災時には、遊歩道・渡り石などは避難路として活用できるほか、親水プールにより消火用水の取水が容易になり、スロープの設置で消防車両が乗り入れることも可能になりました。
写真解説 上流部の砂防堰堤(2004年8月撮影)
五助堰堤こと、通称五助ダムは、昭和32年(1957年)に作られました。
六甲山にある砂防ダムでは最大で、高さ30m幅78mもの大きさがあります。
すでに役目を終えたこの砂防ダムは、現在は登山やハイキングの手軽な目的地として 人々に愛されています。
住吉川下流域の魚崎郷をふくむ灘五郷の酒造の歴史は古く、室町時代にはすでに良酒としての記述がみられます。
特に江戸時代中期以降、それまで最上の酒といわれた池田酒、伊丹酒の没落のあとをうけて播磨平野などに産する良質の酒米と西宮の名水「宮水」とに恵まれ、杜氏の優秀な技術とあいまって「灘の生一本」は日本酒中の最優良品と称されています。
↑菊正宗酒造記念館
2004年10月撮影
↑白鶴酒造資料館
2004年10月撮影
酒米の精米の動力としては、主に水車が用いられました。電力が普及するまでは六甲山から一気に流れ下る住吉川の急流は水車による動力確保に適し、最盛期にはその数は50以上にもなり油作りや粉ひき等、近隣住民の生活にも多大な恩恵をもたらしました。
今でも水車が残っていたり復元されているところもあります。
↑魚崎郷のマンホール
2004年10月撮影
↑山田区民館の隣にある復元された水車
2004年10月撮影
また余談になりますが、明治中期、東海道本線が敷設されるとき、当初は魚崎郷内を通る予定でしたが酒造家らの「陸蒸気の煙で酒が死ぬ」との猛烈な反対にあい、現在の路線に変更されました。
しかし、この路線では住吉川が完全な”天井川”のため川の下を通さねばならず、このために日本最初の鉄道トンネルである住吉川トンネルが作られました。
↑櫻正宗記念館
2004年10月撮影
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菊正宗酒造記念館
白鶴酒造資料館
櫻正宗記念館
灘校は地域の酒造業の皆様方から深く助けられて設立されました。
オリエンテーションや職業研修などで、これらの記念館には灘校生は何度もお世話になっています。